社会福祉HERO’S

福祉偉人伝①〜社会福祉は元祖ソーシャルビジネス!?

福祉偉人伝

執筆者 ノリソン 2020.10.30

三田谷 啓 Hiraku Sandaya

私が勤務する社会福祉法人三田谷治療教育院は兵庫県芦屋市に本部があり、障害がある子どもから大人まで生活・就労支援、相談支援に取り組んでいます。明石市では市からの委託で、就学前の障害がある子どもたちの発達支援をしています。当法人は昭和2年に三田谷啓(さんだやひらく)が創設した日本で4番目に古い歴史と伝統ある社会福祉法人です。三田谷啓が大切にした治療教育をもとに支援の必要な障がいがある幼児から高齢者までの幅広いご利用者に対して、自分らしい生き方をサポートしている社会福祉法人です。今回は、その創設者である三田谷啓(さんだやひらく)をご紹介します。

※以下、当時の用語として、現在では使うべきではない用語を使用しています。

 

創設者三田谷啓は貧しい農家の生まれでしたが、志を得て苦学の末、医者となりドイツへ留学します。その際に「治療教育学」という学問に出会いました。当時の「治療教育学」とは「精神異常の児童を教育的に治療するもの」でした。三田谷は、ドイツ留学中にゲッチンゲン医科大学に入学して「血液抵抗力査定と疾病の関係」というテーマを研究し、ドクターの学位を取得しました。また夏季休暇にはハンブルグなどを訪問して、虚弱、癇癪等を起こす子どもを収容している施設や、精神薄弱児(当時、知的障害がある子どもは「精神薄弱児」と呼ばれていました)を収容して教養している教養所を見学しました。ドイツで実践されていたこうした慈善事業に大変感銘を受けた三田谷は、ミュンヘン医科大学に移籍し、精神病理学者クレペリンにビネー・シモンの智力検査の指導を受け、ミュンヘン郊外にある精神病院で精神薄弱児を対象にビネー・シモン法によるメンタルテストを実施しました。

メンタルテストをする三田谷

ドイツでのこの経験を通じて、教育や医学から排除されている日本の精神薄弱児に対する治療教育学の適用や特殊教育、医学と教育の連携の必要性を感じた三田谷は、帰国後の昭和2年にその実践の場として三田谷治療教育院を創設しました。

院長 三田谷啓(前列中央)と職員、子どもたち

三田谷啓は三田谷治療教育院の創設前よりドイツ留学で学んだ知能検査の導入に取り組み、日本で使用可能な検査用具の開発に専念しました。また、日本初とされている智力検査法を精神薄弱児の鑑別テストに使用したり、大正14年には皇后様に母性教育の実施機関の設立を願い、今日の恩賜財団母子愛育会創立の基盤をつくったり、とさまざまな活動に取り組みました。三田谷治療教育院設立後は「治療教育」を実践し、心身障害児の社会復帰に力を尽くすとともに、母親たちを対象に医学的、教育的なアプローチに基づく育児法を啓発しました。

今回は、三田谷啓の数ある取り組みのなかで、主に3つの実践をご紹介します。

【取組 その①】

障害がある子どもたちを支援するために、いまで言う「クラウドファンディング」を実施!

昭和初期、幻灯から無声映画へとメディアの変革がなされたなか、昭和4年にはすでにメディアの影響に着目していた三田谷啓は、三田谷治療教育院のプロモーション映像を作成して、母親たちへの子育て啓発の一環として使用しました。また、障害がある子どもたちの支援に対する公費が無い時代に、現在のクラウドファンディングのような支援者を募り、寄付金を得るためにPR映像を活用するなど先進的な活動をしていました。寄付者のなかには当時の皇室や県知事、市長の名前もありました。

当時のPR映像の一場面より

【取組 その②】

障害者の母親と一緒に、全国啓発キャンペーンを展開!

三田谷啓が力を注いでいたことのひとつに“母親の教育”があります。迷信による育児が一般的であった時代に、ドイツで学んだ医学や治療教育学、心理学等、科学的な知識をもとに母性教育の必要性や、精神薄弱児発生予防と指導保護のための家庭の役割の重要性を啓発。子ども中心の生活スタイルをつくるための展覧会を全国各地で開催しました。100回以上開催された展覧会では、38万人以上の来場者が訪れ、全ての子どもを健全に育てるのが大人の役割であり、国家社会を良くする道だと生涯を通じて訴えました。明治時代の終わりから福祉施設における知的障害がある子どもに対する福祉サービスが始まりましたが、社会的に母親たちを集めて啓発活動を行っていたことは、当時としては大変貴重な取組でした。

母のための展覧会

【取組 その③】

「すべての障がいがある子どもたちに学校教育を!」と小学校を設立。

昭和13年に学齢期の障害児のために、三田谷治療教育院内に学校法人翠丘尋常小学校を附設しました。

三田谷治療教育院全景 左から付属学寮「コドモの学園」、本館、院長舎

三田谷啓が校長を務めていた私立翠丘尋常小学校は肢体不自由児、知的発育の遅滞している子ども、さらには身体虚弱により特別の対応が必要な子どもや特殊事情のために共同教育が困難な子どもを対象に「特殊教育」を施しました。医学と教育の密接な連携をもとに児童の生活改善に努めたのです。

現在の特別支援教育においては、特別な配慮を必要とする子どもたちへの個別な対応がなされていますが、三田谷治療教育院における実践は当時において、とても先駆的な形態でした。

 

昭和36年、長年にわたる功績が認められ、藍綬褒章が授与された三田谷啓は、昭和37年5月12日、多くの子どもたちに見守られながら80歳の生涯を閉じました。

「天与の才能が全然ないのかと疑われるほどのものがあるが失望してはならない。百尺掘って出なければ二百尺、二百尺で出なければ三百尺、それでも駄目なら四百尺と掘っていくうちに石油層に届き、そこから滾々として尽きずに石油の出たことを聞くが、治療教育者もこの忍耐を忘れてはならない。たとえ庭の掃除や縁側に雑巾を当てるだけでもいい。それが個人の最もすぐれた点であれば、それでいいのである。誠を尽くし、心を尽くして一生懸命にいそしむ仕事を児童から掘り出すのが尊い治療教育者の務めである。」

これは、三田谷の遺した言葉です。

現在、三田谷啓の遺志をつぎ、私たち三田谷治療教育院のスタッフ一人ひとりが医療・教育・福祉に関する専門性に磨きをかけ、その人らしく、「すきな人」と「すきな場所」で、「すきな仕事」をするという「治療教育」の実践を目標に、ご利用される方やそのご家族に応じた処遇とサービスに努めております。

ノリソン
兵庫県社会福祉法人三田谷治療教育院

高等学校卒業後、将来の夢もなく福祉という響きの良さだけで3年制の福祉専門学校に入学。卒業後、やはり、やりたいことが見つけられず就職氷河期真っ只中、明確な志望動機を持たずになんとなく10社以上の就職面接に挑むがことごとく惨敗。藁をもすがる思いで当時一番嫌だった知的障害者に関わる入所授産施設に奇跡的に就職することが出来、「汚い」「気持ち悪い」「こわい」と知的障害者に対しイメージしていましたが、完全に苦手意識がなくなり、現在は、社会福祉は社会をデザイン出来るクリエイティブな仕事と感じながら従事している。

高等学校卒業後、将来の夢もなく福祉という響きの良さだけで3年制の福祉専門学校に入学。卒業後、やはり、やりたいことが見つけられず就職氷河期真っ只中、明確な志望動機を持たずになんとなく10社以上の就職面接に挑むがことごとく惨敗。藁をもすがる思いで当時一番嫌だった知的障害者に関わる入所授産施設に奇跡的に就職することが出来、「汚い」「気持ち悪い」「こわい」と知的障害者に対しイメージしていましたが、完全に苦手意識がなくなり、現在は、社会福祉は社会をデザイン出来るクリエイティブな仕事と感じながら従事している。

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